苑友會舘は地域の文化や芸術の発信拠点を目指して修復している施設で、平成19年から東近江市五個荘地区のイベント『ぶらりまちかど美術館・博物館』で1日に限り一般公開しています。建物は近江商人松居遊見の旧宅を4年の歳月をかけ修復し、會舘のすべての部屋から鈍穴(どんけつ)流の庭が眺められるように整備しています。
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勝元宗益と花屋文七郎(花文)
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勝元宗益(
鈍穴
文化7年〜明治22年
)
師である辻宗範の死後、30歳のとき家を出て各地を歴遊し慶応年間に近江国金堂村に逗留し、亡くなる明治22年まで山村文七郎家に定住した。すでに植木商を始めていた花屋助三郎(文七郎)は宗益に師事し数多くの寺院や近江商人邸宅の築庭に携わり、のちに与市(2代目文七郎)も宗益に師事する。宗益は秘伝書のほか自叙伝、短冊、折形などを残している。
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花屋文七郎(花文)の軌跡
助三郎の長男与惣吉(後の二代目助三郎)は、慶応元年には「花屋助三郎」として植木商を始めている。明治になり「山村文七郎」と改名して「花屋文七郎」を名のり「花文」が屋号となる。明治25年文七郎の死去に伴い長男の与市は二代目文七郎を襲名する。
二代目文七郎は明治から大正にかけて、数多くの近江商人の邸宅の庭を手掛けている。五個荘金堂の外村与左衛門家をはじめとする外村家一統、中江勝次郎家(三中井)の中江家一統、能登川の阿部市郎兵衛家の阿部家一統、鍛冶屋村の田附太郎兵衛家の田附家一統、犬上郡豊郷の伊藤長兵衛家や伊藤忠兵衛家、犬方の若林又右衛門家など作庭は相当数に及ぶ。近江商人は京都や芦屋に本店や別宅を構えることが多かったので、年間を通して手入れを行うために戦前まで京都と芦屋に各々数名を配属させていた。
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