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鈍穴流について
『長浜先人誌』より抜粋
 昭和25年11月3日 長浜市教育委員会発刊
勝元宗益(1810〜1889)
名は源吾、字は子接、蘭谷、無時庵と号し、鈍穴と称した。文化7年6月15日長浜市勝町に生る。
国友町辻宗範の門人で、性恬淡磊落、人格高潔で俳句、和歌、狂歌、茶道、華道、礼法、南画、築庭から医術に至るまで諸道に通じ、その豊かな芸術的天分をよく発揮した。而して茶道では宗益、南画では蘭谷、築庭では鈍穴をその号とした。
その築く所の庭は「鈍穴の庭」と俗称し、埋石深く脱俗味豊かな名園である。しかもその足跡は東は常陸、西は丹波、南は河内、北は金沢にまで及び、その数実に527ヶ所の多きに達し、造庭数の記録は将に斯界に冠たるものがある。その非凡の才能は近衛篤麿のみとむる所となり、その寵を受けたという。慶応3年版平安人物志にその名が上梓せられている。
30歳の時、家を出でて各地を歴遊していたが晩年神崎郡南五ヶ荘村金堂に定住。明治22年4月9日歿す。時に80歳の高齢であった。
終生妻帯せなかったので子孫は絶えたが、その養成した門弟は実に数千に及び、その著である「造庭伝」3巻は斯界に於ける貴重な文献とされている。
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『西応寺庭園について』より抜粋
 村岡 正  昭和61年
鈍穴は本名を勝元源吾といい、文化7年(1810年)、現在の長浜市勝町(旧、六荘村)で生まれた。
長じて国友町(旧、神照寺村)に在住した茶人辻宗範に遠州流の茶を学び、宗益と号した。芸術的天分にめぐまれ、華道・俳句・和歌・狂歌・南画をよくし、作庭に通じ、南画では蘭谷あるいは蘭岳、作庭では鈍穴を名のっている。辻宗範及び小桐宗伯(医者)と共に3奇人と称され、妻をめとらず、30歳のとき家を出て近江の各地や京都はもとより、東は常陸、西は丹波、南は河内、北は金沢にまで歴遊し、次々と寄宿して絵をかき庭を作っている。真偽は定かではないが生涯に527ヶ所もの作庭をしたとの記録がある。晩年に現五個荘町金堂に定住し、明治22年(1889年)4月9日、80歳の天寿を全うした。
金堂には花文造園の本宅があるが、造園業を始められた初代と2代は鈍穴に師事された。山村家には鈍穴70歳のときの自筆になる「庭造図絵秘伝」ほか2冊や、庭景図などが伝えられている。茶を教え、酒をたしなみ、常々1升瓶を傍らにしながら座敷に座し、自在に人々を指図して意のままに石を動かし、早くは2,3日で一庭をこなしたと伝えている。彼の描いた戯画の賛に”茶であらひ 酒で清むる腹なれば 心のちりの処置なし”というのがあるが、快活にして豪放、高潔な人柄はすべての人に好かれていた。豪華ではあるが俗にはならないという鈍穴の作風が花文さんに伝えられ、手法の上でも特色のある庭が又一つ西応寺に作られたことは、こうした歴史的意義をもつものといえるであろう。
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